明日は高校の同窓会が催されるのだが、私は参加不可能。ただ幹事のNが頑張ってくれて、みんなの近況などを30ウン年ぶりに聞くことができた。感謝である。そんな中、何人かの同級が鬼籍に入っていることを聞く。特にさっき聞いたAの訃報(すでに2年前だが)は寝耳に水だ。たしか彼とは高校時代に関西の方にともに旅行に行った記憶があった。記憶があいまいだったので同窓のグループチャットで友人のGやSに確認したところ事実だった!一緒に旅するほど仲良かったんだと思いつつ、卒業後に音信不通になったことを悔やむ。流石に半世紀も生きていると友人・知人との別れが現実のものとなる。2年前といえばワタシも癌が発覚したとき。一歩間違えれば他人事ではなかったわけだ。古い友人とのつながり、なかなか会うことはできないが、大切にしたものだ。
考えること
俳優の植木等さんが亡くなったそうだ。個人的には特に興味もなかったヒトなのだが、病名でちょっと気にとめた。"肺気腫"ということで、ワタシの父親と同じ病気を患っていたらしい。でも80歳というのはまあまあの年齢か。ご冥福をお祈りいたします。
このような訃報を見るたびに思うことがある。あとどれだけの数の人間と知り合い、別れていくのだろうかと。そしてその中でどれだけのことをキオクしていけるのだろうか。
ワタシにはこれまでの人生で3つの印象的な邂逅と別離がある。2つは別離、そして1つは出会いだ。2つの別離はいずれも死別。一人は中学生のころから仲の良かった友人、もう一人は父親だ。友人の方は本当に運が無かったというほかはなかったのだろう。高校に入学してすぐに、ほんの些細なこと(自転車で転倒)でその命を終えた。たぶんそれはワタシにとってはじめての親しいヒトの死であったと思う。それ以前にも父方および母方の祖父母の死には直面していたと思うが、この友人の死ほどのインパクトは無かった。そう、そのときがはじめての"死"というものの実感であったわけだ。
もう一つの"死"である父親のものは、ある予感があった。これは上記でも触れた肺気腫は呼吸困難になることがよくあり、徐々に体力を削っていく。どのような病もヒトの意気を消沈させるものだが、この病は長いスパンでこれが起こるのだ。だからいずれは訪れるであろう"死"を知覚できる。ただやはり直接の肉親である父の死というのもは、予感があったとしても、覚悟があったとしても、そのインパクトは甚大だ。ワタシはそのときはじめて肉親の"死"を認識した。
二つの死別はワタシの心の底にある決意を促した。絶対にこの世界で生き延びるということを。それは絶対に自身で命を絶つことはないということで、その先には生命というものの存在に対しての敬意に繋がっている。それと同時に"死"を凌駕したいという欲求もあり、これはワタシ自身、尊大だと思わざるを得ない。そんな混沌の感情がこの2つの死別には伴っていった。
さて1つの出会いはもっと別の側面をもつ。これはある先輩との出会いだ。ワタシがもっとも尊敬しているその人格は、その母性からくるのかもしれないけれども、それ以上に昔、その先輩から発せられたコトバがワタシにとって思いがけないモノであった。それは普段の人からは想像もできないような弱々しいもの。同時にヒトは完璧で在る必要がないということを知覚した。けれどもだからといって、すぐに諦めるのはよくないことだが、精一杯頑張ってどうしようもなくなったらちょっとくらい弱音を吐いてもいいんだよ、ということ。それを他人が受け止めることは出来ないけれども、ただ吐き出すだけでもココロは軽くなる。後は本人次第。そんなことを何となく思ったものである。
これらの出来事は昔に在った出来事であり、ワタシのなかで繰り広げられた心象だ。そしてこれらの事はいつか訪れるであろう終わりの刻まで決して忘れることはない。
このような訃報を見るたびに思うことがある。あとどれだけの数の人間と知り合い、別れていくのだろうかと。そしてその中でどれだけのことをキオクしていけるのだろうか。
ワタシにはこれまでの人生で3つの印象的な邂逅と別離がある。2つは別離、そして1つは出会いだ。2つの別離はいずれも死別。一人は中学生のころから仲の良かった友人、もう一人は父親だ。友人の方は本当に運が無かったというほかはなかったのだろう。高校に入学してすぐに、ほんの些細なこと(自転車で転倒)でその命を終えた。たぶんそれはワタシにとってはじめての親しいヒトの死であったと思う。それ以前にも父方および母方の祖父母の死には直面していたと思うが、この友人の死ほどのインパクトは無かった。そう、そのときがはじめての"死"というものの実感であったわけだ。
もう一つの"死"である父親のものは、ある予感があった。これは上記でも触れた肺気腫は呼吸困難になることがよくあり、徐々に体力を削っていく。どのような病もヒトの意気を消沈させるものだが、この病は長いスパンでこれが起こるのだ。だからいずれは訪れるであろう"死"を知覚できる。ただやはり直接の肉親である父の死というのもは、予感があったとしても、覚悟があったとしても、そのインパクトは甚大だ。ワタシはそのときはじめて肉親の"死"を認識した。
二つの死別はワタシの心の底にある決意を促した。絶対にこの世界で生き延びるということを。それは絶対に自身で命を絶つことはないということで、その先には生命というものの存在に対しての敬意に繋がっている。それと同時に"死"を凌駕したいという欲求もあり、これはワタシ自身、尊大だと思わざるを得ない。そんな混沌の感情がこの2つの死別には伴っていった。
さて1つの出会いはもっと別の側面をもつ。これはある先輩との出会いだ。ワタシがもっとも尊敬しているその人格は、その母性からくるのかもしれないけれども、それ以上に昔、その先輩から発せられたコトバがワタシにとって思いがけないモノであった。それは普段の人からは想像もできないような弱々しいもの。同時にヒトは完璧で在る必要がないということを知覚した。けれどもだからといって、すぐに諦めるのはよくないことだが、精一杯頑張ってどうしようもなくなったらちょっとくらい弱音を吐いてもいいんだよ、ということ。それを他人が受け止めることは出来ないけれども、ただ吐き出すだけでもココロは軽くなる。後は本人次第。そんなことを何となく思ったものである。
これらの出来事は昔に在った出来事であり、ワタシのなかで繰り広げられた心象だ。そしてこれらの事はいつか訪れるであろう終わりの刻まで決して忘れることはない。
昨夜は冷え込んで氷点下12℃まで下がったため、今朝、クルマを動かすとき苦労した。でも今日は良いお天気で残雪のため町がまぶしい。そんな今日は大学院生候補が集まるリクルーティングデイ。ウチのラボで実験を手伝ってるFくんやラボテクのLexyも今年の9月からグラデュエートスクールに通うつもりなので参加している。そんなわけでデパートメントはなんだかちょっと活気にあふれた雰囲気だ。ウチのラボには研究室巡りということで3人ほど訪れてきた。インドからとオレゴン、ペンステイトからだそうな。ラボマネのDoreenにプロジェクトの説明を彼らにしてくれということで、簡単に研究意義と何を具体的にやっているか説明した。今年はグラデュエートは何人くるのだろう......
さて今日は久しぶりにボトルビールの紹介をしよう。いつも飲んでいるビールとかなのだが、こっちの方は東海岸よりも選択の幅が広いかもしれない。
実はこのボトルビールはワシントン州の州都であるOlympiaにあるローカルブルワリ(Fish Bowl)のものであり、昨年に行ったことがあるのだ。こんなマニアックなビールが町の生協で買えるとゆーのは、ちょっと東海岸では無かったことなので不思議だ。(まあ探せばあるのかもしれんが......)
先日の日本滞在中に飲んだビールはこういったビールと較べてやはりちょっと薄い気がしていたのだが、改めてこっちで飲み直してみるとキリンやサッポロのビールなんかよりも遙かに味わい深いねぇ。
さて今日は久しぶりにボトルビールの紹介をしよう。いつも飲んでいるビールとかなのだが、こっちの方は東海岸よりも選択の幅が広いかもしれない。
Amber Aleと | Indian Pale Ale |
実はこのボトルビールはワシントン州の州都であるOlympiaにあるローカルブルワリ(Fish Bowl)のものであり、昨年に行ったことがあるのだ。こんなマニアックなビールが町の生協で買えるとゆーのは、ちょっと東海岸では無かったことなので不思議だ。(まあ探せばあるのかもしれんが......)
先日の日本滞在中に飲んだビールはこういったビールと較べてやはりちょっと薄い気がしていたのだが、改めてこっちで飲み直してみるとキリンやサッポロのビールなんかよりも遙かに味わい深いねぇ。
先ほど駐車場の雪の中をあさっていると、なくしたナンバープレートを見つけた。これでとりあえずは違反キップをきられることはなくなったわけだが、プレートの固定具の破損が著しい。これは早速、新年にでも連絡して立て替えてもらわなければ。
さて今年もあとのこり6時間たらず(山岳標準時間で)。今日は仕事納め(?)のつもりでラボにちょっとだけ行って来た。涸らしたカラムを再充填するためだ。高濃度塩で洗浄している間、気晴らしもかねてキャンパス内をまた散策した。その間にいろいろなことを思い出して。
まず今年の一番大きな出来事はアメリカ準横断だと思う。今年の1月終わりにデラウェアからモンタナまでクルマで移動したのだ。
ここから | ここへ |
冬季だったので、6日かかってモンタナまでやってきた。またデラウェアでの出来事も突然だったため、金銭面や生活の変化、人間関係などいろいろと苦労した。たとえば日本に住んでいるヒトと電話での会話の時の考え方の齟齬や、認識、感覚など。いずれもただでさえ伝え難いものであるが、そういうことは多々あったと思う。ワタシは学位を取るときは日本の大学だったので、そのときの気違いじみた生活はしっているし、較べてアメリカのそれは明らかに緩やかだということも理解している。日本での研究は、おそらくそういった学生時代の生活の延長上に成り立っているため、博士研究員となっても同様の生活パターンを続けるが、アメリカではそういったことはない。(それ故に日本人はワークホリックだと言われるわけだが......)また日本でのそういった生活は何かしらの強迫観念を与え続けていたように感じてならない。昨日、東京の国立大で博士研究員として従事している後輩とSkypeを介して電話していたが、それは彼の現在の状況や言動からも感じられた。
だとすればワタシは日本に戻ってやっていけるのだろうか?そんな不安が脳裏をかすめるのだ。ただワタシもアメリカに正味4年半すんでいるので、その経験もまた価値のあるモノなのだろう。(少なくとも自分にはそう言い聞かせている。)たとえば、日本の人たちにしてみれば在米日本人は結構、のほほ~んと暮らしているかのように思われるだろう。しかし、そういった旨みだけが海外生活でもないのである。通常、日本人が日本に住んでいる限りは、人種差別というものには無縁だと思う。しかし、アメリカではこれが厳然たる現実として存在している。そしてワタシも人種差別を受けているという経験が多々、あったわけだ。もちろん、それが10割というわけではない。ただ確実にどこかに内在しており、長く異邦人で在り続ける限りはその経験を伴うということである。これは日本から出たことのない邦人には説明しても、わからないであろう。いや知識としては知っていてもそれを体感するのとはやはり違うのだ。
たとえそんな不快なことをあえて受けたとしても、海外での経験は確実に在外邦人のなかで昇華されると思う。これはそして本当に日本が世界の矢面に立つときの為の通過儀礼だと思うのだ。
今年1年を振り返って、相変わらずだらしがない生活だったが、それなりに自己も進歩していると思う。それが幻想なのかもしれないけれどそう信じたい。
それではみなさん、良い年の瀬をお過ごしください。
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