米国けんきゅうにっき

はじめまして!2001年に日本を飛び出し米国へ。研究分野は化学でしたが、2005年のはじめに職場を東海岸から山の中へ移し、その際に研究分野も大きく変えました。そして2010年に結婚とグリーンカード取得。さらにさらに2011年夏に再び1800マイルを東に向かい、新天地、ミシガンに生活の場を移しました。せっかくの貴重(?)な人生なので、日々の出来事を残しておくことができれば幸いです。

思い出(学生時代)

ぱわ~まっく3

blog_2014_10_02_00 もうずいぶん昔のことだ。修士論文を書くにあたりパソコンが必要になった。○工大の研究室ではAppleのMacintoshが主に使われていたので、自然と自分もMacがほしいと思っていた。当時、化学系の研究室でMacが使われていた理由はおそらくだがChem Drawというアプリケーションの存在が大きかったんだと思う。当時のWIndowsにはこれに匹敵する構造式作画ツールが無かったからね。ほかにもMicrosoftのWordはMac版じゃないと編集や絵の貼り付けが思ったようにできないとか、当時の指導教官たちは言っていたような気がする。ああ、あとPostScript対応のプリンタがMac対応のみとかもあるか。まあとにかくWindows(当時は3.1とか95/98)では代替にならないというのが周りのコンセンサスだった。

 そういうわけでワタシの最初のPCはPower Macintosh 6100という機種。これまでのMacに搭載されていたMotorolaのMC68K系CPUを搭載するMacからIBM・Motorola・Appleの3社共同開発されていたPowerPCシリーズを搭載する初めてのPower Macintoshの一つだった。ワタシのMacはAVシリーズということで映像出力用の拡張カードがデフォルトで刺さっており最高解像度が当時としては高い機種(1152x870だとか)だったそうだ。載っていたOSは漢字Talk7.0系で後にMacOS8までアップグレードした記憶がある。


 さて修論なんだが自宅ではこの6100の漢字Talk7上で走っていたMS Wordで書いていた(確か...)。ただこのOS、やたら不安定でしょっちゅう爆弾マークやらSadMacやらが出て苦労した記憶がある。研究室ではふる~いMacintosh SE/30というのを使って書いてたな。まあそれでも修論だったからね、なんとかだましだまし使って書き上げた。たしかその後、直ちに日本化学会の春季年会の準備もコレでやったな。


 その後、博士3年間もこのMacにお世話になった。ただ研究室の指導教官がMacオタクだったので、研究室内のMacがどんどんアップグレードしていき、自宅のこのMacの性能も陳腐化してしまった。そのあたりでPowerPC G3とかいう当時としては強力なCPUが登場し、ワタシの6100用のPowerPC G3搭載拡張カードも発売されたので、これを機にG3カードを搭載した(リンク先はワタシのものではないが、基本的に同じコトをした)。これでD論に臨んだわけである。まあいろいろあったがD論提出も終わり、公聴会も済み、そして最終試験も終わり晴れてDを取った。


 その後、最初に赴任したのが大分である。ここにはこの愛機のPower Macintosh 6100/G3を持っていき、これでデータ整理したり学会発表準備、論文作成をしてきた。大分には1年しか居なかったのでこのMacとは足かけ6年の付き合いであった。大分を辞して渡米するときにこの相棒は実家に置いてきたからね。それ以降、ワタシはWindowsユーザーとなったわけである。だから今のAppleのOSXについてはくわしく知らない。UNIXベースで作られたOSってくらいか?わかっているのは。まあ当時のMacOS系アプリをきれいさっぱり切り捨ててOSXにしたから、まったく未練がなかったんだよね。


 それがワタシのMacの思い出である。ではワタシの相棒のMacは今はどーなっているかといえば、東京の実家にある。しかも修士のときに研究室で使っていたSE/30も廃棄するとか言ってたので、もらってきて修理して一時期使っていた。メモリ増設したり、ネットワークカードを秋葉で見つけてきたりしたし、アナログボードが壊れたので半田ごて握って修理したり、さらにはMacOSのアップグレードパスからも見放されてたので、NetBSDっていうUNIX互換をインストールしてファイルサーバーにしたりしてた(ここでネットワークの知識やUNIXコマンドなんかも覚えたな)。それもまだあるはずだ。


 ワタシのコンピューターリテラシーを育んでくれた機体たちである。


Rest in Peace、せんせい

 先月の終わりに中学時代の恩師が亡くなった。


 ウチの代は比較的横のつながりが強いのか、忘年会や同窓会をよくひらいている。これもFBなどのSNSが普及してきたためなんだろうけど、元生徒会長がそれを利用して同窓会などの写真をアップしている。そんな中おととしの忘年会の写真のひとつに、その先日亡くなった先生が写っていた。当時、この写真を見たときはミシガンにきたばっかりで近いうちの帰国なんて考えられない状態だった。でもその写真を見て、「いつかお会いしたいな」とおぼろげに思っていた。


 その先生は私が在籍していた中学3年G組の担任だった。なんか学級委員をやっていた記憶があるんだが、私は当時そこまで積極性はなかった。だから、その先生(仮にJ先生としておこう)が、「よしお前がやれ」と鶴の一声で決まったのを覚えている。その後、あのクラスではいろいろと紆余曲折があって大変だったんだが、まあ良い思い出だ。


 中学の卒業式の後にあった謝恩会のことである。ウチの親がJ先生に「うちの子は昔、学校にナイショで自転車で森林公園と城ヶ島に行ったことがあるんですよ~」と言ったことがある。そーしたらJ先生は「そんなの時効だよ、はっはっは」と返してきたそうだ。ちなみに森林公園とは東武東上線の森林公園駅からちょっと離れたところにある武蔵丘森林公園のこと、城ヶ島とは神奈川県三浦半島の南端にある島のことである。たしかいずれも帰宅したのが結構な深夜になってしまった。まあ中学生の非力な身体ではなかなかの遠出だったし、中学っていうのはそもそも校則で学区外に単独で出かけるのを制限していた...はず。


 そんなことがあったなぁ。まあ若いときってのは、なんか衝動的に思い切ったことがやりたくなるのよ。特に当時、ウチの中学はなかなかに大変でさぁ、気の小さいワタシが学級委員を押し付けられるワケだから、なんかはけ口が必要だったんだろうと、当時の自分を省みている。そんなワタシにとっての自転車小旅行がちょっとした冒険心を生んで、(クルマでだけど)アメリカ横断につながったのかもね。


 今思えば、ホントーに中学のときは引っ込み思案で学級会とかで司会をするのも極度に緊張していた。一人っ子だったからねぇ...そんなワタシにJ先生はいろいろと人前に出たり、ヒトと積極的に接したりする機会を与えてくれた。このままではコイツが大人になったときに苦労するだろうと思ったのかもね。


 あらためてお疲れ様でした、J先生。28年の月日を過ぎて再会は叶わなかったけれど、中学でのご恩は忘れません。

三陸町での出来事(その2)

 今日も100Fいきそうな勢い。(現時点で93F、摂氏で34℃)空調の効いていないココの建物もまもなくキケンな温度に達しようとしている......さてここでお知らせ。来週の土曜日(7月28日)にモンタナ州、HamiltonにてBrew Festaが開かれることを知った。入場料が$15でグラス+3杯までテイスティング付き(更に飲みたい方は+$1で1テイスティング)だ。今春に開かれたBozemanでのBrew Festaとよく似た形式だ。当然、ワタシも行くつもりなのだが、さすがにHamiltonはBozemanから遠いので、近くでキャンプをする事にした。興味のある方はゼヒご連絡を!


 さて前回のつづき。友人の住んでいた三陸町はちょっと国道からはずれたところにあり、いろいろと曰く付きの地名(首崎とか、脚崎、死骨崎とか......)があった。なんでも昔、酋長(?)のカラダが流れ着いたことにちなんで名付けられたとか。(ホントーかどうかは知りません。どなたか○○大学○産学部のかた、おしえて。)とくに小壁港とゆー半島の先にある小さな漁港は、満月の夜はだれも(漁業従事者含む)近寄らない。ある晩(もちろん満月ではない)に行ったことがあるのだが、夜間の其処はさすがにヤバイ雰囲気であった。(残念ながら写真はナシ)
 そんなヘタれなワタシはまだ太陽の出ている時間にその幼なじみと、そしてついてきた大学の同期(現在はなんの因果か上海にいる。911のとき、ワタシの身を案じてくれたのか電話がかかってきた。)とともに首崎の灯台とほこらまで歩いていったのである。

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ワタシと現在、上海在住人ほこらのそばから灯台を臨む

 どれくらい歩いたか覚えていないのだが、人っ子一人いない場所であった。(クマもいっぱい出たらしい。)灯台に続く階段にはたくさんのシカの糞があったのが印象的だ。(柵がないので、階段の外は崖っぷちだったような......)ところで右の写真は首崎のほこら(ワタシの記憶が正しければ首塚だったらしい)から撮影した灯台。落ちている赤い棒はおそらく鳥居の残骸だろう。(たしかワタシたちが訪れたときにはすでにほこらは荒れ放題だった気がする。ただしすでに10年以上経っているので定かではない。)

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夏の草原。ワタシと幼なじみ

 首塚に行ったのは寒い時期だったが、それ以外にも夏にも訪れた。そのときは別の大学の同期、チ○ピラとM田だ。たしかそのときも心霊ツアーとかいって、夜間に心霊スポットを巡り歩いた。山の中腹にある廃校とか、電気が消えるのろいのトンネル(^^)とか。まあ夏らしい風物詩である。

 最後に三陸町の現在を調べてみたのだが、大船渡市に合併されたんだってね。あらためて時の流れを感じるよ。

三陸町での出来事(その1)

sanriku1993_03.jpg むか~し、Rover MINI 1.3iに乗っていた。左のクルマである。このクルマで東京から福岡の香椎(大学同期の実家)、大分(修士同期の就職先)、熊本(先輩の働いている場所)、宮崎(フェリーで、最初のポスドク先の大分に行くため)、四国の坂出(大学の同期の実家)や道後(大学院先輩の実家)、北海道の稚内(傷心旅行)、北陸・富山(両親の実家)、そして岩手・三陸(幼なじみの大学の在る場所)など、日本中をともに走ったものだ。渡米する際に手放したが、10年以上、乗り続けたクルマである。
 英国車ということで、さんざんトラブルに見舞われたものだ。オイル漏れは当たり前で、冷却水関連や電装系などはしょっちゅうだったので、たとえエンジンルームから白煙が出てきてもあまり驚かなくなったし、雨の中で急に止まっても冷静に路肩の方によせたものである。(軽いので一人で動かせるのも利点だ。)それでもいろいろとトラブル対策の改装を施してはあったのだが。思い起こされる最大のトラブルはやはり冬の北陸に向かったときであろう。たしか博士号をとった直後である。今は地震で大変なことになっているらしい、柏崎市のすぐ外。国道8号線にのったとたんに雪にあい、海風の吹きさらす日本海の目の前で止まってしまったことだ。時間はすでに10時過ぎ。雪がエンジンルーム内に入り込んできて、ディストリビュータ(点火プラグにタイミング良く電圧をかける装置)を濡らしてしまい、エンジンが動かなくなったのだ。原因は分かっているので、この部品が乾くまで待つしかなかったのだが、周りは真っ暗で非常に心細かったのを覚えている。そのあと糸魚川までなんとかクルマを走らせられたのだが、そこでガス欠に気づくも、すでに深夜2時。GSは軒並み閉まっていた。ここで観念してJAFを呼んだのだが、たしか糸魚川の駅前で3時間ほど待たされたのであった。

 さて前置きが長くなってしまったが、このMiniを駆けて当時、幼なじみが下宿を始めた三陸町まで行くことにした。(実は彼が滞在していた3年間の間に3回は立ち寄った記憶がある。最後はたしか稚内の帰りだ。)東北は当時のワタシにはちょっとしたあこがれの土地だ。柳田國男の「遠野物語」の舞台となった遠野や寂れた感じの釜石や大津波被害の歴史をもつ大船渡などは、ちょっと陰があって個人的には非常に興味をそそられていたのだ。(ただし行くとわかるが海産物がとってもおいしい大船渡や、ちょっとノスタルジックな遠野は陰があるというイメージは似つかわしくない。まあ陰とゆーのはワタシの勝手なイメージだが......)

 ワタシのMiniは1.3Lの排気量、4速マニュアルだったので、高速道路でも現代の自動車の様に120キロ超の巡航には(乗っているほうが)耐えられない。ゆえにゆっくりゆっくりと東京から大船渡まで向かったものである。現在の道路事情はよくわからないがたしか当時は東北道を一関で降りて気仙沼まで出てから、北上した記憶がある。(友人には花巻まで行けと言われた記憶もあるのだが、あんまり覚えていない。)

 三陸町はちょっと小ぶりの半島にあり、太平洋の荒波を一身に受けている。大船渡から続くリアス式海岸は碁石海岸という名前で有名であり、上記にも書いたが海の幸がおいしい場所だ。たしか帰り際に鮮魚市場でワタシは生きているホタテを、ついてきたワタシの大学の同期はホヤを買って帰っていった。友人の方はホヤの調理の仕方がわからず、とりあえずゆでてみたのだそうだが、ものすごい悪臭がしてきたのでトイレに流したそうだ。当時、ワタシもホヤとゆー生物すら知らなかったので、ナニに使うのやらと思ったモノだ。

 さて長くなりそうなので、次のエントリに続く。

みんなの○ァ○コン

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 今朝はマイナス14℃だったけど、帰宅時はマイナス7℃まで上がってきた。たしかに"痛い"から"寒い"、になってきたからねぇ。でもちょうど帰るとき、クルマに乗り込んだら雪が降ってきた。冷蔵庫に食材がつきているので、帰りにスーパーに寄ったのだけれども、スーパーを出る頃にはすでに吹雪始めていた。30分ほど前に帰ってきたばかりなのに、ふと窓の外に停めてあるクルマを見ると雪が積もっているヽ(TдT)ノ明日はまず雪かきか......_| ̄|○ ガクッ

 ところでみんなのファ○コンもとい、「みんなのスパコン」とかいって東工大が公開型のグリットスーパーコンピュータの導入を発表したそうな。新入生も使えるんだと。いまの学生は恵まれているねぇ。でも新入生がコレをなにに使うのかしらん?

東工大、1万コアのOpteron搭載グリッドは「みんなのスパコン」
 国立大学法人 東京工業大学は29日、16日付けで発表した国内最大のスーパーコンピューティング・グリッドに関するプレス向け説明会を開催した。
 まず、東京工業大学学術国際情報センター長 酒井善則氏がグリッドの概要について解説。米AMDのOpteron、米SunのGalaxy、米Cluster File Systemsの大規模ファイルシステム、イスラエルVoltaireのインフィニバンド、英ClearSpeedのSIMDアクセラレータボードなど、各国の技術をNECが結集して実現したと説明した。
 このグリッドはデュアルコアOpteron 8way(16コア)のノード計算機を655ノードで構成。計5,240個(10,480コア)を搭載し、50T FLOPSを実現する。さらに、SIMDアクセラレータを600ボード以上搭載し、合計で100T FLOPSを実現する見込み。

 さてこの「みんなのスパコン」、日本国内最大の性能になるとか。日本の最高性能のスーパーコンピュータといえば地球シュミレーターが思い浮かぶが、それでもピーク性能が40T FLOPSだからたしかにすごいね。でもこれって正式名称が「みんなのスパコン」なの?

 これまでいろいろとクレームもあったが、学生時代のほっかいど~旅行を紹介してきた。今日はその最後。留辺蘂から旭川まで層雲峡を越えていいったのだった。すでに疲れていたらしーので、ほとんどただ通過しただけだったよーな気がする。ところで実は遠い親戚が旭川の近くに住んでおり、そこにこれまた遠い昔、お世話になったことがあるのだ。そしてワタシの母の家族は戦時中に北海道に疎開していたため母の生まれは北海道なのである。その遠い昔に訪れた北海道の地はJR石北線沿線にある丸瀬布という町。残念ながらそのときは層雲峡(国道39号)の方を通ってきたので、丸瀬布は通過しなかったが、なんとなく当時のことを思い出していた。(当時は丸瀬布の民宿で泊まり、石北線にゆられて遠軽から北見、そして網走まで行ったのだ。)

 旭川ではバイク小僧がさらにまだまわるということで、神居古潭で別れた。そのあとは高速に乗って札幌そして室蘭まで一気に戻ってきた。(レンタカーの返却日が迫っていたので。)帰りも同じフェリーだが、半数の反逆者どもが18キップで帰京するのを拒んだので、たしか青森で別れた。ワタシと数人はそのまま鈍行に揺られて、UNOやら大貧民やらで時間を潰して、深夜に東京に到着。そんなカンジで6日間は夢の様に過ぎていった。

 ところで新学期になるまでバイク小僧には会わなかったのだが、どーやら神居古潭で別れた直後にコケたそ~な。まあ生命に別状はなかったみたいだけどね。どーも写真がないとなかなか伝えられないこともあるし、ワタシ自身、忘れてるな~。実は北海道はこのあと2回、行っている。学会で札幌と、単独で東京から稚内まで運転した。そのハナシはまたいつかね~。
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