米国けんきゅうにっき

はじめまして!2001年に日本を飛び出し米国へ。研究分野は化学でしたが、2005年のはじめに職場を東海岸から山の中へ移し、その際に研究分野も大きく変えました。そして2010年に結婚とグリーンカード取得。さらにさらに2011年夏に再び1800マイルを東に向かい、新天地、ミシガンに生活の場を移しました。2016年夏に仕事の都合でテネシーに引っ越しました。クルマ関係の仕事ですが、未だに合間を見ては投稿論文の準備をしています。まあ、せっかくの貴重(?)な人生なので、日々の出来事を残しておくことができれば幸いです。

2009年08月

夏の夜のちょっとした’オカルト(その6)

 週末は実験をしてひさしぶりに完徹になった。こんなのはいつ以来だろう?ついでに月曜日からタンパク質の精製を予定していたので、日曜日に下準備となり、なかなか忙しい週末を過ごしたのであった。

 さていちれんの”ベンガラ伝説”だが、今回でおしまいである。もし初めてココを訪れた方がおられたらば、このリンクから読んでほしい。




 畑山という苗字が、叔母の旧姓だということは以前書きました。畑山さんと叔母の関係をそのとき追及するべきだったのですが、B、C、Dの三氏の取材を優先させてしまいました。休み明けの21日、わたしは東京駅八重洲地下街のNTTのサービスセンターに向かいました。叔母の実家とは疎遠とも書きましたが、叔母の家族構成のことは良く知っていました。それには理由があります。
 叔母の実家は諏訪で魚屋をやっていました。兄が二人いて、長男は信州大学を出て医者に、次男は夜学から一橋に進学して公認会計士になりました。そんな兄弟のことを、母が、よく「魚屋の子供が、医者と会計士」になったと話すので覚えているのです(無神経な母は、叔母に面と向かって、この言葉を発するので、とうとう叔母は母と不仲なままでした)。次男はいざ知らず、長兄は諏訪で開業しているのではあるまいか。そう思い、わたしは諏訪の畑山という医者と連絡をとろうと思ったのです。結果はビンゴ。二件目でわたしは、叔母の兄を探しあてました。
 畑山医師は、息子にまかせ、隠居中の身とか。突然の電話にも丁寧に応対して下さいました。

以下、畑山医師の話です。
 「ベンガラ」などというもの(わたしが目撃した人のようなもの)には、全く心当たりはない。どうして妹がそんな話をしたのかも分らない。「赤蛙」の神事は知っているが、人柱とかそんな物騒なものではない。Bという人物は信用できるのか(そう言われて、わたしもそろそろ、Bという人が大嘘付きだったのではないかと思えてきました)? ただし、紅殻とドイツの秘密兵器に関しては思い当たることがある。
 わたしは、終戦後、信州大学で予防医学の研究をしていた。民間療法のそれも迷信のようなものから、近代医学に移行させ、集団検診を実現させるのが目的だった。そうした活動をしていたとき、紅殻を用いた強体術というものを行っているものが何人も居た。体に紅殻を塗り、壁に体をぶつけて鍛えると言うもので、それが昂じると、大木や岩に体当たりするらしい。打撲傷、骨折ならまだいいのだが、毛細血管が分断され、血尿、それが凝固して、腎不全を起こしているものまでいた。そして、この無茶な強体術の根拠は、終戦間際ドイツから伝えられたと言うものだった。彼らの取材を続け、発信源を突きとめんとして、わたしは、ついにU中将という軍人にいきあたった。その当時、戦犯として獄にあったが、その名前はよく知っていた。わたしは教授の手を借りるなどして、ついにU中将の側近だったFという人物をつきとめた。
 Fは終戦間際、牛島辰熊などと共に、東条英機暗殺計画に連座した容疑で投獄されていたため、戦犯を免れていた。Fによれば「強体術」は、不死身の軍人を造ろうとしたU中将が、ゲッベルスのラストバタリオンの計画から思い立ったもので、実際医学的考証はドイツからもたらされたものだということだった。それは、漢方及び中国武術の秘伝を、近代医学的に研究した成果だった。中国武術に「鉄砂掌」という錬功法がある。具体的には、酸化鉄を掌に塗り込め、砂袋を打撃して、鉄より強固な拳を作り上げるという技術だった。本当の「赤蛙」とは、その錬功方から造られた不死身の兵士である。だからあなた(わたし=筆者)が聞いた人柱の話なんて、全くの嘘だろう。また、Fによれば、巷間行われている「紅殻」の強体術も、まったくの出鱈目で、紅殻を用いるということのみ当たってはいるが、あんな方法では、到底不死身の肉体など得られないということだった。わたしは半信半疑で、そんなこと(不死身になること)が可能なのか問うた。Fは自信満々という表情で答えた。
 「間違い無い。ドイツで、メンゲレが人体実験を繰り返した末、開発した方法だ」
 メンゲレ・・・。ヨーゼフ・メンゲレ博士のことか。わたしは背筋が寒くなるのを覚えた。

 U中将は、皇居・大本営を松代に移転し、そこで本土決戦を迎えることを計画していました。「赤蛙」の軍団は、戦車に対して白兵戦で応じられる、無敵の兵団となる予定でした。
 しかし、そうはならなかった。「赤蛙」は完成しましたが、それはついに、天皇の赤子たることはなかったからです。
 メンゲレ博士が繰り返した実験の話は、多分他のスレにあるかと思いますので、ここでは書きません(畑山医師が、F氏からの伝聞として話してくれたことですし、F氏も実際に立ち会ったわけではないようです)。
 結論から述べれば、「赤蛙」は、人格が崩壊していて、戦争には使えなかったということなのです。目の前の危険に反応する、本能的に身を守って、確実に敵を倒す。それは完璧にできるのですが、集団として、敵を攻撃するとかという、システィマティックなことは全く出来ない。つまりは、虎とかライオンの集団のようなものだった。そうした「赤蛙」に脳手術を施して、軍人として造り直す作業をしていたのが、帝大医学部から引き抜かれた天才的な医師、畑山医師だった。畑山医師は、その名をF氏から聞いておどろきました。
「君の縁者か?」
「従兄です」
「では、畑山くんが自ら赤蛙になったことは当然知っているね」
 わたしも驚きましたが、畑山医師のおどろきは並大抵のものではなかったでしょう。



 
 とうとうFという人物から畑山医学博士という人物にたどり着いた。そしてその怪人物は筆者の遠縁の畑山医師の従兄なのだ。

 昨夜家に帰ると、畑山医師から手紙がきていました。手紙の内容はさることながら、一葉の写真が同封されていたのです。畑山医博の写真でした(なにか畑山さんと言う人が、だんだん実在の人物ではないような気がしてきてしまい。写真をリクエストしたのです)。その写真を見て・・・そのことは最後に書きます。
 畑山医師の話、Fとの対話と言う形式で書いている時間もないので、結論から書きます。
 終戦直前、ドイツの医学技術と中国武術の秘伝を組み合わせることによる不死身の兵士造りは、脳障害という副作用で頓挫しかけた。そこで招聘されたのが、東京帝国大学脳神経科教室の畑山医学博士だった。いかなる手法を用いたか、詳細は不明だが、畑山医学博士は、その問題を解決し、ついには自らが実験台となって、赤蛙となることを志願した。それは美しい犠牲精神を発揮したのでは決してなく、畑山博士は、完全に自己が不老不死の鉄人になるという確信を持って、のぞんだのだ。
 従兄は、永遠の時間と鋼鉄の肉体を手に入れたのだと、畑山博医師は確信しているようです。
 畑山博士は実験の成功とともに、行方不明となり、すぐに終戦が訪れました。ふらりと帰ってくる事もなく、以来行方はようとして分からない。また肝心な資料は全て畑山博士が持ち去り、残りはU(内田ではありません)中将が全て処分した。関係者の中の何人かが、不老不死にあこがれ、酸化鉄による肉体改造を試みたが、成功するものはなかった。畑山医師が大学時代出会ったのは、こういった人々の流れをひく人たちなのだろう。しかし、数年後、思わぬ展開があった。石井部隊(831部隊)の問題だった。戦時中の非人道的行為が糾弾され、その手が諏訪にまで伸びてきたのだ。ナチスドイツから持ち帰った旧陸軍の研究と言うのは、余りにも危険な存在だった。そこでこの実行者たちは、迷彩をはったのである。曰く「赤蛙の神事」これは太古より諏訪神社に伝えられた神事であり、古代は丹を用いて生贄を捧げたものだが、近代になって紅殻を用いその形を真似るだけになった。生贄ではなく人形を人柱のように埋めているのだ。
 わたしが見た「紅殻」というのは、この架空の風習の形骸化した名残だったのでしょう。遮光土偶のような顔と書きましたが、あれは下手糞な蛙の顔だったのです。父も叔父も気楽な気分で紅殻を製作したのでしょう。今年は出来がいいというのは、余所者である父と叔父に対する地元の人間のお世辞とも考えられます。叔母は太古の生贄云々の話を信じていたのでしょう。「昔は・・・酷いこと・・・」というのは、20数年前のことではなく。大昔という意味だったのだと思います。先輩からのメイルにもこのことが書かれていました。先輩の一族では、ごまかしで紅殻人形を作ったりした行為を恥じて「なかったこと」にしたそうです。しかしボケていた(先輩の言葉です)祖父さんは、物置に残っていた紅殻を見つけ、昔に戻ってベンガラを作り出してしまったのです。恍惚の人となっていた祖父さんは、しかし、ベンガラを思い出せず、紅殻から連想したのは(海老の)鬼殻だったのです。隣人などから、昔の行為を話題にされたときは、神社のお飾りを作っていたとごまかしたそうです。
 拍子抜けでしょうか?
 これが、わたしのたどり着いた真実です。
 写真の話をします。写真に写っていた畑山博士は、紛うかたなく、Dさんの別れたご主人でした。
 他人の空似? あるいはそうかも知れません。わたしは元ご主人には2,3回しか会った事はないし、出自に関してもまったく知りません。迷惑な言いがかりかも知れません。しかし、他人の空似では片付けられないくらいよく似ているのです。ドイツとの因縁を考えると、なにかの思惑があって、Dさんに近づいたと思えてならないのです。90歳を超えているはずの畑山博士は、当時とまったく同じ容貌で、永遠の時間を生きている・・・
 これで、話は全て終わりです。信じていあただけますか? でしたら、この件に関しては、これ以上、詮索、追及しないようにお願いします。
 ネタだと思いの方、もうわたしは、このスレを手放します。ご自由に続きのストーリーをお書きください。
 長い間おつきあいいただいて、お疲れ様AND有り難うございました。
 ちゃんと、結末まで書きました。これでも、まだ、まうとかまー言われるのでしょうかね。
 では、またいつか。







 さて、いかがであったろうか?個人的には、未だに畑山医学博士が歴史の陰で生きているというのが、ゾクゾクきたね~。なんだかロマン(?)があるじゃな~い。ただこの怪人物の目的がなんなのかは不気味ではあるが......(自分の研究が正しいことを証明するためとかゆーのはナシよ)

夏の夜のちょっとしたオカルト(その5)

このリンクのエントリから読んでね!!

 ここでD氏のお話なのだが、彼女の話はこれまで一連のベンガラの内容とは異なる。ただこのオカルト談の結末に重要な内容であるのも確かだ......

 軽井沢の別荘は中軽井沢から登った、故石の森章太郎さんの別荘のとなりにあります(女房の実家の別荘です)。石の森先生がご存命のころは、うちの子供も、色紙もらったり花火もらったり、いろいろ可愛がってもっらったものですが・・・
 Dさんには中軽井沢駅前の蕎麦屋で会いました。Dさんは若い女性です。

Dさんのことです。Dさんは実は紅殻の証言者ではありません。
 Dさんは28,9歳で、イギリス生まれ。高校卒業後日本に帰り、上智大学外国語学部に入学、そのときモデルをしていて、某飲料メーカーのCMに出演。確かフランスロケに行ったんだと思います。そのときのスタッフの働きぶりに感動して、卒業後はその代理店に就職。総合職で営業をしています。一時はアイドル的存在で、一部のフリースタッフなど「Dさんが営業じゃなきゃ引き受けない」なんてわがままをいったものでした。ところが4年前惜しまれつつ同級生と結婚。わたしも(仕事仲間です)がっかりしたものでした。美人で頭が良くて、フランクで大酒のみで付き合いがいいという、理想的な女性でしたから。そのDさんに久しぶりに会ったのが、11日の夜の有楽町線です。「来週あたり呑みにいこうよ」と向こうからおさそいがあったのですが「残念、おれ軽井沢なんだ」と答えた次第です。ところが偶然にも、Dさんも軽井沢なんだとか。中軽の駅からチャリで5分くらいとのこと。わたしの(女房の実家の)別荘は北軽ですから、それは好都合ということで、蕎麦屋での逢い引きを約束したのです。18日金曜日、仕事で帰ると言う口実で中軽の駅まで送らせ(その後、家族はメルシャンの工場見学)、蕎麦屋で昼酒をやりながら、Dさんを待ったのです。期待半分でしたが、Dさんは定刻に登場(基本的にイギリス人なので、極めてパンクチュアルです)。まずビールで旧交を温めました。そのときDさんが、とんでもないことを言ったのです。
 「このたび、4年ぶりに旧姓にもどりました
 先月離婚したとのことです。こうなると、わたしみたいに小心な男はもう駄目ですね。当然、亭主も一緒に来てると思ったからこそ、気楽に誘ったのです。これじゃあ、本当の逢い引きだ。しかもDさんは、いつもよりピッチが早い。不倫なんて言葉が頭に浮かび(わたしが?)、とにかく、この場のお茶をにごそうと、わたしは「紅殻」の話を始めました(相応しい話題かどうかなんてどうでもいい、これなら数時間は時間が稼げます)。Dさんはクレバーな人なので、わたしの動揺を察知したようで、興味津々という表情で、わたしの話をきいてくれました。

さて、Dさんは一通りわたしの話を聞いてくれたあとで「その話聞いたことがある」と言ったのです。心やさしいDさんのリップサービス(という言葉を頭に浮かべただけで、赤面してしまう純な中年です)とも思われましたが、一応うかがうことにしました。
 Dさんによればそれは「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」という映画と「ゲッベルスの贈り物」というミステリーで、そこに終戦間際に不死身の兵士を造るエピソードがあったと言うのです。わたしは午後一の切符が取れていると嘘をついて、Dさんと別れ、逃げるように中軽の駅に去りました(小心者です)。一つだけグリーン車の席がとれたので、わたしはすぐに東京にもどりました(だから本当は18日には戻っていたのです。自宅にPCがないことは既に述べました)。その足で図書館に向かい、Dさんの言ったことを確認しようとしました。資料は実は簡単に見つかりました。「バラゴン」のほうは、フランケンシュタイン(の怪物)の心臓を、Uボートでドイツから持ちかえり、そこから不死身の兵士を創り出そうという荒唐無稽な話。「ゲッベルス」のほうも、ゲッベルスのアイデアによる無敵の軍隊の構想を、Uボートで持ちかえる途中、終戦になってしまうというお話でした(ただし、この軍隊が「物理的に無敵」というものではないというとんでもないオチがあるのですが、フィクションであることに変わりはありません)。
 なんだ。まるで関係のない話に、えんえん突き合わせたのかという怨嗟の声が聞こえるような気がしますが、実はとんでもない偶然の一致だったのです。



 さてまったく関係ない内容の様ではあるが......と、このあと書き手から以下の様な書き込みが入る。

これが最後の書き込みになります(理由は後で書きます)。
 確かにいろいろな方から指摘があったように、わたしは個人情報を書きすぎました。Dさんや畑山医師に迷惑をかけかねません。紅殻が、なんなのかもほぼ分かりました。ですから『逃げ』でなくて『完結』だと思ってください。
 ●Bさんについての情報 信濃毎日新聞(また実名ですが)の某氏と連絡を取りました。だからこれは、信毎の公式見解ではなくて、某氏の個人的な意見です。
 Bさんは虚言癖のある札付きの人物だそうです。わたしはA先生からの紹介だったので、頭から信じていたのですが。オーム真理教の松本サリン事件のときには、すぐに「松代大本営に秘匿されていた旧陸軍の毒ガス」というデマ情報を撒き、初動を混乱させた人物とか。諏訪神社とも無関係。奥さんも宝塚ではないそうです。しかし「生きてるのは、畑山さんくらいだろうな」という言葉は、実は真実だったのです(後述)。
 ●Cのこと Cさんはご高齢かつ大分酔っていらっしゃったようで、事実の誤認、勘違いもいくらかあったようです。
 ●Dさんのこと ほんとうに書きすぎました。すみません。と言いながら、実はわざと書いていなかったことがあるのです。偶然の一致というのは、Dさんが教えてくれた2つのフィクションのことではないのです。Dさんが英国生まれの英国育ちだと書きました。お父さんは外交官です。祖父さん、曽祖父さんは英国びいきの帝国海軍の軍人でした。曽祖父さんは英国の日本大使館付きの武官。祖父さんは技術将校でした。もうお分かりですね?戦時中ドイツから機密を持ち帰った方の一人です。「赤蛙」じゃありません、念のため。Dさんについては、もっととんでもない偶然の一致があり、それでわたしは書き込みをやめようと決心したわけですが、それについては後で書きます。



 さて物語は収束していく。

夏の夜のちょっとしたオカルト(その4)

3つ前のエントリから読んでね!

 B氏から聞いた”ベンガラ”の話はとんでもない展開となってきた。かつて諏訪神社の副祝の一族であったB氏は旧陸軍が裏で計画していた「神ながら(かんながら)赤子還り」の神事を目撃していたのだ。つまり、国民一人一人が、神懸かり、古代の天皇の赤子、すなわち不死人に還る(蛙)というのだ。そして6人の若者がこの神事、いや人身御供に選ばれ、5人までが”赤子”となるのだが、この神事に疑問をもった1人、畑山はこの神事から逃走する。しかしながら、この畑山も最後には死体で見つかるのだが、それはどうやら別人だったらしい。それでは、この神事を施された”赤子”はいったい誰なのか?

Cさんの話
 Cさんは、諏訪国民学校の配属将校だった人で、畑山さんが脱走したとき山狩りに駆り出され、例の死体を発見した一人です。大変なお酒のみで、長野市在住。17日に川中島町の「鯨屋」という呑み屋で話をうかがいました。
 「赤蛙の神事」のことは薄々知ってはいた。その神事を汚すものがいて、スパイの疑いありということで、畑山捜索に加わった。死体は山のふもとで簡単に見つかった。腐乱死体に朱肉を塗りたくったような状況で、身元の確認も難しいと思えたが、軍部から検視必要無しという連絡が入り、そのまま発見地ちかくに埋められた(このあたりBさんの話とは多少異なりますが、Cさんは当事者でしたから、こちらが近いと思われます)。如何に戦時下とは言え、警察はないがしろにされたわけだが、U中将の力か、畑山さんの死は闇に葬られた。
 Cさんの話のポイントは、昭和23~24年ころ、長野市で発生した一家心中事件にあった。病苦の父親かかえた寡婦が、父親と自分の子供3人を鉈で殴り殺し、自ら首を吊るという悲惨な事件だった。Cさんは町内会の役員をしていた関係で、この家を訪れ、第一発見者になったわけだが、この家の中に、5つの死体以外に、2体いわゆる、わたしが見た「紅殻」、Bさんが見た赤い死体のようなものも同時に発見したのだった。
2つの不審な遺体は、警察に運ばれ司法解剖された。当時(今も?)長野県には監察医がいなかったので、解剖は信州大学の法医学教室で行われた。遺体は2つとも男性で、甲は30代~40代、乙はかなりの高齢者。死因は二人とも薬物中毒による肝臓壊死で、血液中から大量の水銀が見つかった。甲乙ともに栄養状態は極めて劣悪で、胃の中はほとんど空という状態だった。また両手足には長期にわたり緊縛されていたと思われる、皮膚の擦過傷および糜爛(びらん)が見られた。特記すべきは、両遺体がベンガラで赤く染められていたことだった。そのためか腐敗の進行は遅く、屍蝋もしくはミイラといった状態だった。遺体は経帷子様の白装束を身に纏っていた。そして、この2体は、床の間に安置され、某かの宗教的儀式に使われていた様子だった。第一発見者であるCさんは、直感的に、老父の病気快気を願って置かれた供物であろうと思ったと言う。
 結局二人の身元は分らずじまいで、検察は容疑者(娘)死亡、被害者不詳のまま殺人容疑で告訴した。
 Cさんの記憶では、そのとき県警の捜査一課の部長刑事が、「赤蛙」の話をして、多分、父親の病気が治るように、娘が生け贄を作ったのだという話をしたということだった。今ならカルト宗教ということで、マスコミが大騒ぎしたろうとCさんは言った。

今までの書き込みを再チェックしました「松本」を含め、誤字、脱字、書き忘れ多数ありました。少しフォローさせて下さい。

 *叔母の旧姓が「畑山」であること。諏訪には多い姓(しつこいようですが、実際は別の姓です)とか。しかし、畑山さんとの繋がりはありました。口述します。
 *蝦殻の件。先輩からのメイルが入っていました。これも後で書きます。


 この終戦後に起こった不可思議な一家心中事件は戦時中に秘密裏に行われていたという、”神ながら(かんながら)赤子還り”と様相が酷似していた。ここに畑山と間違われた遺体の正体の糸口があると思い、C氏はこの一家心中事件の担当刑事に尋ねたのだった。

Cさんの話(続き)
 Cさんが不思議に思ったのは、そのデカ長の顔に見覚えがなかったことでした。畑山さんの捜索に加わっていたなら、知らないはずはないのです。「赤蛙」の件も巡査部長が知っているようなことではないからです。
 Cさんは、刑事に詰問した。一介の警官が、なんで「赤蛙」について知っているのか? 刑事の答えは至極簡単だった。それは太古から続く諏訪神社の神事だ。むろん人間を生け贄にするようなことは、もう何百年も行われていないだろうが、戦時中必勝を祈って、人間を生け贄にしたような事件もあったのだ。畑山さんのことかと、Cさんは聞いた。刑事は言下に否定した。地元の分限者が、浮浪者を使って「赤蛙」を造る事件が発生して、それを担当したということだった。Cさんはふと思い当たって聞いた。犠牲者は一人ですか? 一人や二人じゃないだろうと刑事は答えた。救国を願う分限者は、金をばらまいて犠牲者を集めて、「赤蛙」を大量に生産していたようだ。それを聞いて、Cさんは、畑山さんの死体と間違えたものの正体が分ったと思ったそうだ。しかし、そんな事件が起こりながら、軍部はなぜ知らなかったのだろう。Cさんの疑問に刑事は笑って答えた。報告しなかったからさ。特に報告しろとはいわれなかった。最後の犠牲者らしき人物が見つかったという報告があったときも、軍からそのまま埋めよ指示がきて、やはり報告する必要はなかったのだと思った。
Cさんは、そのとき刑事に、旧陸軍が「赤蛙の神事」を行っていたことを説明しました。しかし、刑事は半信半疑の様子だったそうです。刑事の言によれば、国家的な機密にするようなことじゃなくて(むろん違法だけど)、隠れてやってるやつはいただろうということなのです。CさんはU中将がその件にからんでいたことは知りませんでしたから、戦時中の事件は単なる勘違いっだったのかとも思ったそうです(もっとも、わたしのこの件に関する知識も総てBさんの話のから得たものです。それが嘘でないと言う確信はありません。U中将の自殺の件といい、奥さんが宝塚といい、疑わしいといえば、本当に疑わしいのですが・・・。なおU中将と言う参謀は実在していました。故人ですが、死因は今のところ調べがついていません)。
 Cさんはご高齢のため、ここまで聞いて取材は打ち切りになりました(お孫さんが迎えにきました)。わたしはタクシーでホテルまでもどり、翌日軽井沢にもどりました。次の取材相手とは、軽井沢で会う約束をしていたのです。



 畑山と間違われた遺体はどうやら在野の救国を願う資産家が執り行った神事だったらしい......ここにきて唯一、”神ながら赤子還り”の神事から生き延びた青年、畑山がナゼ生還したのか、そして代替の遺体は誰だったのかが、おぼろげにわかってきた。

 しかし、この出来事の不気味さは別のところにあったのだ!!次のエントリは4人目の証言者、Dさんについてだ。

夏の夜のちょっとしたオカルト(その3)

 前々回のエントリから読んでね!

 相変わらず心地よいBozemanの気候。休みの日はついつい昼寝をしてしまう。




 引き続き、”ベンガラ”のお話だ。前回、書き手のヒトは諏訪まで行き、元大学教授のA氏から”ベンガラ”と元軍部や本土決戦との関係を語られる。そして、そのA氏からB氏という諏訪神社関係者を紹介されるのであった。

Bさんのお話
 Bさんの取材は実は大変でした。諏訪神社(神社でいいのです)の関係者とはうかがっていたのですが、神官の一つである副祝という職にあった(現在は引退)人でした。なぜ、このような方をA先生が紹介してくれたのか、最初は全然分らなかったのですが、実は大変なことだったのです。それを書く前に、最初のいきさつについて、報告しておきます(じゃないと、なんでこんな重大な話を、初対面のわたしにしたのか、疑う方もいると思いますので)。
 Bさんとは、上諏訪駅近くの「味宏」という料理屋で会いました。15日のことで、本来ならお盆休みというところなのですが、この日は諏訪湖の花火大会なので、開いていました。昼飯でも食べながらということで、Bさんが指定してきたのです。しかも、示し合わせたかのように、「味宏」のお勧めメニューは「車海老の天丼」でした。Bさんは、60過ぎのがっしりした体格の人物。わたしは、この歳になっても自分より大柄な年長者というのが苦手なのですが、Bさんは、そういう意味では恐ろしいほどプレッシャーを感じさせる人物でした。昼飯でも・・・というお誘いだったので、友好的に話が始まると勝手に思い込んでいたのですが、実際は反対で「なにを企んでいる」「なんで、今ごろそんなこと詮索する」という詰問から、話は始まってしまいました。わたしが個人的な好奇心からだと説明すると「なんでそんな気まぐれに、付き合わなければならなにのか」「お盆休みだっていいうのに(あんまり、一方的に言うので、思わず『あんたは毎日が日曜日なんじゃないの』と言い返しそうになってしまいましたが、ぐっと堪えました=当たり前だ)」と大変な剣幕です。A先生の名前を持ち出し、ビールで乾杯して、やっと話が始まりました。ところが、話が始まると、Bさんはとんだ話好きでした。
 以下、Bさんの話の要約です。
 松本大本営の計画が進んでいたとき、陸軍参謀本部にU中将という人物がいた。当時海軍は、伊号潜水艦を使って(晩期はUボートを使って)ドイツから秘密兵器の情報を仕入れ、実際、桜花、菊花、秋水などのジェット機、ロケット機を製作した。これに対し、陸軍は登戸研究所で殺人光線の研究を行っていたが、開発の目処は全く立っていなかった。この状況を苦々しく思っていたU中将は、全く違った視点から、秘密兵器を開発しようとした。それが、「蛙狩」だった。諏訪の7不思議の一つで、正月元旦早朝に諏訪神社上社前の御手洗川(みたらしがわ)で蛙(赤蛙)をつかまえ、生贄(いけにえ)として捧げ、国土の平安などを祈るという古来の風習だったが、U中将は、この赤蛙に人間をあてた神事を提唱した。すなわち「神ながら(かんながら)赤子還り」という神事である。国民一人一人が、神懸かり、古代の天皇の赤子に還る(蛙)という神事で、ここでの赤子とは、文字どおり赤い人間をさし、不死身であったというのだ。
「不死身ですか?」
 わたしが問うと、一杯のビールで、真っ赤になった(それこそ赤子だ)Bさんは、声を立てて笑い、それからむせたのか涙混じりに言いました。
「不死身さ。絶対に死にはしない。なにしろ生きていないのだからな」
 Bさんは泣き出し、「味宏」の客は不審な目でこちらを見ます。店の人は、どうやらこうしたBさんのふるまいには慣れているようで、こちらを見ようともしません。
「生きてるのは、畑山さんくらいだろうな」
 Bさんは、泡の消えたビールを飲み干し、いびきをかき出しました。


 文中で登場する”神ながら(かんながら)赤子還り”の神事だが、ナチスドイツの戦争におけるオカルト傾倒にも似ている。また個人的に思い出したのは高野山が執り行ったという、Franklin Roosevelt大統領(1945年4月12日に死亡)の呪殺のための大元帥明王法。(むかし密教関連の書籍に記載されていた)

Bさんは、その当時9歳で、副祝は世襲だったので、父親、祖父がこの件には係っていました。Bさんも後を継ぐことが確定していたので、正式なメンバーとして「蛙狩神事」に参加されて(させられて)いました。なお現在の諏訪神社の副祝は、Bさんの一族とはなんの関係も無いそうです。Bさんには子供はなく、副祝という立場にも全く執着がなかったので、他人に譲ったということです。なお、Bさんによれば、奥様は元宝ジェンヌとか・・・
 Bさんの話2(目を覚まし、続きを話してくれた)
 赤蛙には、地元の若者6人が選ばれた。いずれも徴兵検査に不合格だった者たちだ。当時男子の誉れは甲種合格であり、第一乙となれば、いささかコンプレックスがあり、いわんや丙種(不合格)というには、死にも値する不名誉だった。現実的に、丙種になるのは「性病」「結核」「不具」の者に限られていた。そんな青年に、陸軍参謀本部から、滅私報国の要請があったのだ。皆勇んで「赤蛙」たらんとした。赤蛙になるためには、斎戒沐浴、諏訪神社での禊(みそぎ)の後、21日間の断食、及び「丹」の摂取が必定だった。丹とは水銀である。丹頂(鶴)というのは、頭が赤いと言う意味だ。つまり丹とは赤を指す。金属の水銀を呑めば死んでしまうが、水に溶かした丹薬として呑めば、かなりの量を摂取出来るのだ(註;水銀イオンということだろう)。神事は滞りなく進んでいたが、10日後に最初の死者が出た。全身を赤く染め、皮膚はただれ、眼球も溶け出すような有り様だった。むろん失敗したわけではない。腐敗しない不滅の肉体が、松本大本営の人柱として捧げられるのだ。残り5人の若者も、感動し、一刻も早く、「赤蛙」たらんとしているうように見えた。しかし、一人例外がいた。それが畑山さんだった(註;前の書き込みで、これは当然C氏とするべきでした。113のレスに秦氏と書かれていたのを読んでいたので、つい無意識にこんな名前にしてしまいました。いかさま、畑山は仮名ですが、秦氏との関連を思わせる苗字です)。
 畑山さんは、帝大を肺病で中退したインテリで、「赤蛙」の儀式にも批判的だった。田舎で戦にも行かぬ身、非国民の謗りを受けることは、別段苦痛ではなかったが、両親が村八分になることを懸念しての参加していたのだ。しかし、惨たらしい死に様を目の当たりにして、その覚悟はすぐに揺らいだ。畑山さんは脱走した。
 わたしは、Bさんの先を促した。畑山(前述したように、実際とは違うのだが)という姓は、叔母の旧姓なのです。

すみません。今までのスレにある「松本」は総て「松代」の誤りです。A先生に電話で確認したところ、紅殻を運んでいたのも松代方面だったそうです。A先生は松本と言う土地が、お嫌いのようで、信濃国家の歌詞も「松本、伊那、佐久、善光寺」ではなく「佐久、伊那、松本、善光寺」にすべきだとおっしゃっていました。


 当時の日本は文中の徴兵検査で不合格になることを、大きな不名誉であるという風潮があったとのことだ。これは昔読んだ”津山三十人殺し”(横溝正史八つ墓村のモデルとなった事件)の都井睦雄も同様に肺病で丙種となったという。

 Bさんの話3(近くの喫茶店に場所を移してうかがいました)
 脱走兵が憲兵に捕らえられたりするのは「おしん」なんかでも、やっていたろう。畑山さんの場合はもっとずっと深刻だった。しかし、事はあっけなく解決した。畑山さんが死体で発見されたのだ。服装は脱走したときの白装束、皮膚は溶け、全身真っ赤だったそうだ。むろん非国民の亡骸を人柱には出来ず、遺体は古井戸跡に放り込まれ、そのまま埋められた。その後、終戦になり、総ては頓挫した。5体の「赤蛙」は、荼毘にふされ、この計画自体が闇に葬られた。しかし、昭和21年の夏、事態は意外な方向に流れた。畑山家に畑山さんが戻ってきたのだ。村人は「赤蛙の神事」も、畑山さんの脱走と死もむろん知らなかった。戦争が終わって180度世の中が変わっていたから、むしろ畑山さんは、歓迎された。しかし、ならば、あの死体は誰のものだったのだろう。偶然とは考えられず、だから、畑山さんが殺して入れ替わったということなのか。Bさんは、その後何年も立ってから(成人してから)、畑山さんに、脱走のことについて質問したと言う。畑山さんの言によれば、丹などただの毒薬に過ぎず、単に犠牲者の遺体に紅殻を塗って、それらしいものを造っていただけだった。U中将は自分の行っていることがいかさまであることは自覚していて、ただ大本営においての自分の存在感をアピールするのがもくてきであったのだ。
 なおU中将は、昭和30年代に自殺したと言う話でしたが、当時の新聞の縮刷版には、そんな報道はありませんでした。信濃毎日新聞にも問い合わせましたが、担当者が夏休み中ということで、未だ不明です。
 Bさんは思い切って、畑山さんと思われた死体について質問してみたが、畑山さんは少しも動じることも無く、心あたりない旨返答した。実家の蔵の地下に隠れていたが、なぜ捜査にこないのか不思議に思っていたという。


 次に登場するC氏のお話は、文中の畑山氏として葬られた人物の正体についてだ。だんだん小説みたいな展開になってくる。

夏の夜のちょっとしたオカルト(その2)

 前エントリから読んでみてね!

 引き続き、ベンガラ都市伝説のお話。書き手のヒトはこのあと5人の関係者のお話を聞くこととなる。まずA氏のお話。

 A先生のお話
 A先生は先輩から紹介された、70代の数学者です。諏訪のご出身で現在は佐久にお住まいです。東京の某国立大学を定年退官された後、長野大学(私立)で教鞭をとっておられます。A先生のご専門は函数学で、直接は関係の無い話なのですが、偶然、A先生は紅殻に関することをご存知でした。そのお話をかいつまんで書きます。
 昭和19年頃、諏訪の一帯の農家に、陸軍から「紅殻」の生産が依頼された。当時、松脂から松根油という航空機用燃料を生産していたくらいなので、別段珍しいことではなかった(少なくともA先生はそう思った=当時小学生)。軍用トラックで、原料が運び込まれ、軍の科学者が指導して、生産に入った。昭和20年になってからは、配属将校が指導した。出来上がった紅殻が何に使われるか分らぬまま、生産は軌道に乗ったが、すぐに終戦となり、紅殻生産は、かなりヤバイ仕事だと言う噂もあって、進駐軍の目を恐れて、生産機械は破壊され、廃棄された。昭和40年代に入ってから、A先生は、偶然、配属将校だった人物と、東京で会い、紅殻は、終戦間際に計画されていた「松本大本営」建設に使われていたらしいという話を聞き出した。
 以上です。松本大本営に関しては、その配属将校の想像の域を出ていません。ただ、完成品は松本に運ばれていたそうです。また、紅殻生産は、ごく一部の農家で秘密裏に行われていたうえ、10ヶ月くらいの短期間、戦後は進駐軍を恐れて、皆口をつぐんだので、知っている人間は、もうほとんどいないだろうということでした。そして、わたしが目撃したような物体(人物)には、全く心あたりはないし、時間的にもずれ過ぎているということでした。
 結局、A先生がご存知なのは、これだけで、しかし、Bさんという諏訪神社関係の人物を紹介してもらえたのです。


 後半に書き手も訂正しているが、"松本大本営"ではなくて"松代大本営"ね。この次のB氏のお話がちょっと荒唐無稽なのだが、なかなかおもしろいのだ。
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