米国けんきゅうにっき

はじめまして!2001年に日本を飛び出し米国へ。研究分野は化学でしたが、2005年のはじめに職場を東海岸から山の中へ移し、その際に研究分野も大きく変えました。そして2010年に結婚とグリーンカード取得。さらにさらに2011年夏に再び1800マイルを東に向かい、新天地、ミシガンに生活の場を移しました。2016年夏に仕事の都合でテネシーに引っ越しました。クルマ関係の仕事ですが、未だに合間を見ては投稿論文の準備をしています。まあ、せっかくの貴重(?)な人生なので、日々の出来事を残しておくことができれば幸いです。

2006年01月

ニューアーク、デラウェアにて~私的米国物語(7)

 サブタイトルちょっと変える。語呂が「いかにしてアメリカに来たか」だとちょっと間抜け。それに長すぎる。で、「私的米国物語」。もう自分のブログだからやりたいほーだいd(゜▽+゜)

 さてこちらは日が落ちた後から雪が降り始めた。しかし不思議と寒さに耐性ができてきたのか、あんまり寒くない。(実際、氷点下1~2℃くらいだろう。)クルマの置いてある場所まで歩きながら夜空に舞う雪を眺める。なんだか風に舞う雪の中で夜空を見つめると、ちょっと方向感覚を失うような眩暈。
 さ~て今日の夕飯はなににしようかな♪~( ̄。 ̄)
 無事、Janisたちにつれられて、これからしばらく住むことになるデラウェア州、ニューアークに向かうことになった。フィラデルフィア国際空港からインターステート95を南に向かい、バイパスの495に入る直前でデラウェア州に入る。実際、空港から(デラウェア州の)ニューアークはそんなに複雑な道のりではないのだが、当時の私はどこを走っているのかまったくわからなかったし、なによりも、進行方向が全く日本と逆の道にはいささか恐怖すら覚えたのであった。

 それでも日暮れ過ぎにはニューアーク郊外にあるJanisたちの家に辿り着く。以下、Janisの奥さんとの会話。

奥さん 「(日本語で)疲れたでしょう?」
ワタシ 「いや~、英語がさっぱりわかりませ~ん( ̄_ ̄|||) 」
奥さん 「でもJanisはゆっくりしゃべってくれるから......」
ワタシ 「それはわかるんですが、それでも......うぅぅぅ(TдT)」
奥さん 「......まあ時間がなんとかしてくれますよっ!」
ワタシ 「<(T◇T)>うぉぉぉぉぉ!!!」

 さてその後、Janisと会話。

Janis    "How was your trip?"
cooyou  "\(;゚∇゚)/ヒヤアセモン☆"
Janis    "I know most of Japanses can't speak well, so don't worry."
cooyou  "ヽ(T-T )ノ ヽ( T-T)ノ"
Janis    "You might as well watch TV."
cooyou  "=三ヾ(ヾ(ヾ(ヾ(ヾ(ヾ(*T□T)ツ"

ってな具合。全く会話になっていないのだった。

 そのあと彼はワタシの為に部屋にテレビを持ってきてくれた。でも天気予報ですら何を、それどころか何処の情報を表示しているのかすらワカラン!そんな自分に自己嫌悪を感じつつ、枕を涙で濡らす夜の始まりなのであった。

フィラデルフィア~いかにしてアメリカに来たか(6)

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 昨夜はなんだか眠りが浅かった。休日でもいつも通りの時間に鳴る目覚ましのおかげで、ベッドの中での微睡みはちょっと不快。そんなわけでベッドからのそのそと出てくるのである。
 実はもうすぐ夕方なのにまだ一食も摂っていない。ワタシの体は日曜みたいに何もしない日だと、エネルギーを要求しないらしい。代わりに日の高いウチからビールを飲んでこのエントリを書いている。至福の時間だけど、すこし寂しげな自分も同居しているかな。
 さっき、今飲んでいるビールを買ってきたのだが、あらためてこの街の美しさに見とれる。ちょっと曇り気味の空だけど、時折雲間から差し込んでくる冬の太陽。この異国で使って良い表現なのかわからないけど、小春日和の今日はちょっと日本を思い出す。

 2001年7月下旬、東海岸時間で午後5持過ぎ、ワタシはフィラデルフィア国際空港にたどり着いた。Janisとの約束では彼らが迎えに来てくれることになっていた。ただデトロイトで電話することができなかったため、到着時間などの現状を伝えられなかったことに一抹の不安を覚えていた。たしかに便名を伝えてあったので、ネットで検索すれば到着時刻なんかもわかるはずであるが、そこまでをまだ見知らぬ彼らに期待するのは酷というものだ。

 バッゲジクレイムで荷物を見つけしばらく待つ。ヒトは徐々にまばらになり、最後にはワタシだけになった。さすがに心配になってきたのだが、ワタシの拙い英語ではどうすることもできずに佇む。

嗚呼、もしJanisが来なかったら、オレはどーなるんだ?
まず当座の宿を探さなければ

 そんなことを思い、まずは電話機のそばに歩いていくと......

"Hey, Cooyou?"
"Nice to meet you, I'm Janis."

と、声をかけてくるアジア系の人物が!

"Sorry, we are a bit of late. Did'nt you worry?"

 そんな風にいろいろと話しかけくれるのだったが、当時のワタシは殆ど理解できなかったのであった。代わりに彼の奥さん(日本人)が訳してくれたのである。

 まあ最初からホントーにまったくといって良いほど理解できなかった英会話。当然ながら、かなり落ち込んだ。しかも翌日はボスとの面会が待っていたのだが、ワタシはあまりの英語のダメダメさにあきれられて、強制送還させられるのではないかとビクビクしていたのである。

ジユウの国へ~いかにしてアメリカに来たか(5)

 久しぶりのエントリー。ちょっと今週は疲れ気味だったのだ~。ちょっと専門的な話になるのだが、今週は円二色性分光光度計(Circular Dichroism)とゆー装置をいじっていた。端的に言うと、この世の中の化合物には左巻きのものと右巻きのものがあるのだ。(これを鏡像体という)こういったものにある特殊な光(これまた専門的になるが、光は"振動”という個性を持っており、在る一定方向にしか振動していない光、偏光というものがある。ふつうの光はすべての方向に振動をもつものの混ざりモノ。)を透過させるとどちらかの方向に振動している面が旋回してしまう。この旋回する角度を測定するのがこの装置なのだ。
 大学の授業では習ったし、デラウェアにいたころのウィスコンシンの共同研究者と測定はしたことはあるのだが、自分で使うのははじめて。なかなか疲れたのであった。
 ところでこの装置、日本製である。研究をして居られる方ならばなじみのある名前であろうが、日本分光とゆー会社。たしか拝島かどこかに本社があったよーな。(むかし学生の時になにかの測定で訪れたことがある。)こんな遠くはなれば土地にも納品しているなんて、なかなかやるな~。
 成田を飛び立ち、まず最初に辿り着いたのが、ミシガンのDetroit。ここはノースウエストのハブ空港なので、たいていノースウエストを海外から乗り継いでくるとここに着く。まずアメリカでは国外から来た場合、最初に降り立った空港で入国審査が行われる。当時のワタシといえば、かなりヤバイ英語しかしゃべれなかったし、ヒアリングもまったくダメであった。もちろん書類は完璧であったが、入国審査での待ち時間はかなり緊張していた。それこそ英語がままならないから不審人物と思われ、別室にご案内されるのではないかしらと、戦々恐々としていたのである。
 たしか審査官との会話は、

審査官 「なにしにきた?(What are you going?)」
ワタシ 「研究だ。(I'm going to research)」
審査官 「専門は何だ?(What is your major?)」
ワタシ 「化学だ。(Chemistry)」

......みたいなカンジだった。

 かなりぶっきらぼうな会話をお互いにしたあと、入国審査は無事通過。次のPhiladelphia行きの便までの2時間を潰すことに。ここでワタシを空港に迎えに来てくれるマレーシア人のJanisに電話する手はずになっていたのだが、まず手持ちのコイン(当時はどんなコインが流通しているのかもわからなかった)で電話をかけようとするも、コインがでかすぎて入らない。(持っていたのは25セントではなくて1ドルだったのである。)で、テレホンカードを購入するも使い方が全然わからなかったので、けっきょく、搭乗時間まで電話機の前で悪戦苦闘していたあげくに、電話できなかったし......_| ̄|○ ガクッ

 ......まああれだ、この話を聞けばどれほど当時のワタシが無知であったかわかるハズである。テレホンカードも日本の様に電話機の差込口に入れて使うものとゆー先入観があったのだが、こちらでは購入したカード自体には説明書と暗証番号の記載以上の機能はないわけで、指定のダイアルフリー番号(裏面に書いてある)に電話して向こうから聞こえてくるアナウンスに従って電話する。まずはだいたい、英語かスペイン語かを聞かれる。その後にカードに記載されている暗証番号を入力(これは銀色の塗装みたいなヤツ、むかしマクドナルドとかにあったスクラッチカードの銀色の部分の下に印刷されている)、その後に国際通話の011と国番号、日本ならば81、そして冒頭の0を省いたかつ市内局番を含む番号(東京ならば03の0を省いた番号すなわち03-3abc-xxxxならば33abc-xxxx)を入力する。そーすると向こうから通話可能時間と残高数を通知され、通話がなされるのだ。

 当時のワタシはそれに至らず(この操作はカードの裏にたいてい書いてある。)、何度も最初に英語かスペイン語かの選択でつまずいていたものだ。そんなカンジで結局は連絡もできずにPhilly行きの飛行機に乗ることになるのであった。

出発の朝~いかにしてアメリカに来たのか(4)

 昨日、アジアングロッサリーで里芋を手に入れた。ふとその店の流し台を見ると......ゴボウとおぼしき物体が。はたしてその正体はゴボウだったヽ(゚▽゚*)ノシ わぁい♪今日の夕飯は豚汁だ~。


 ちょっと今日はあんまり上品な(いつも上品だろーか......)お話ではないのだが金銭のコトに触れたいと思う。(巷で話題になっているLDショックのことではないのであしからず。)

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 まずワタシは海外で暮らすとゆーことをなめていた。とゆーか、無知過ぎた。ワタシの米国のイメージは毎日の様に銃撃戦が行われている非常に活動的な(?)国で自分の身は自分で守らなければならないとか。現金を持ってうろついている外国人なんて格好の餌食。あっとゆーまに身ぐるみ剥がされてしまうとか。まっ、そんな前時代的な印象を持っていた。そんなこともあり、現金はたったの500ドル(!?)のトラベラーズチェックとあとは日本円で1万円。給与が出るまでの生活はクレジットカードでなんとかしようと思っていたわけなのだが、なんとクレジットカードがナゼかサスペンドされていたのだった。出国前に気がついて良かったけど、改めて当時の自分の脇の甘さを痛感したよ。
 米国、デラウェア州での当初の受け入れ先であるが、University of Delaware(UD)のボスの学生さんが迎えに来てくれるとゆー手はずになっていた。一応、Philadelphiaの国際空港からUDのある街までシャトルサービスがあったのだが、その彼の厚意に甘えることにした。(今にして思えば、それで良かったと思う。ついた当時は全くワタシの英語が通じなかったのだよ_| ̄|○ )彼はJanisといってやはり遠くマレーシアから来ていた留学生であった。しかも彼は日本人と結婚していたので、彼とともに彼の奥さんには大変感謝している。

 出発の朝は予定通り、あわただしかった(^ ^;Δ
 新宿までは母が見送ってくれた。タクシーで行ったのだが、ちょうど成田エクスプレスの時間が迫っていたので、運転手さんが近道をするとかいって、世田谷一家惨殺事件の現場の前を通る。そう、当時はかなり話題になっていた出来事だ。当時はまだ警官がその周辺を警備していたな。
 新宿に着いたとき、ちょっと時間(30分ほど)あったので、携帯の解約(まだしてなかったのかよ)をしようとauショップに立ち寄るも前の客がごねていて、結局断念。これは後に母に託すことにする。さて実際、この次はいつ会えるのか全く不透明の旅立ちである。彼女自身、さぞかしいろいろあったと思う。(ワタシは一人っ子だし、彼女自身も若くないからね。)でも、新宿駅の改札でお別れをいったその姿は気丈だなと思った。
 実は後輩の女の子が見送りに来てくれるとゆーことになっていたのだが、私自身、出発時間ぎりぎりにホームに滑り込んできたので、先にホームにいた彼女の方が焦っていた。でもそんなことを言ってくれた後輩は彼女一人だったので嬉しかったのだが、なんだかあわただしいお別れになってしまったよ(-"-;A ...そんなんでも彼女は餞別に十得ナイフ(?)をくれたのであった。

 成田EXに揺られながら考えていた。この先のこと。まず向こうでの生活の立ち上げ、いやコミュニケーションやら研究かな?それにたぶん米国に行ったら、まずなかなか戻ってこれないだろうし、この年(当時20代最後の年代だった)で日本を離れるとゆーことは、日本でのポジションは無いのかもしれないとゆー予感。研究は好きだけど、周りに認められているとゆーカンジではなかったし。先生方や先輩はどう思っていたのか知る由もないが、後輩や同級はなんとなくそんなカンジだった。あくまで(たぶん)研究に関してね。だからこの渡米は研究生活に関して正念場だという予感はあったワケだ。

 大分を発つ直前にJTBに言われたのは、航空券は向こうの手違いで郵送できないということ。従って当日、空港で受け取ってくれとゆーものだったのだが、ワタシはちょっとコレが不安だった。まあでもフロントに行くとちゃんと発券されていた。大分JTBGJ!!便はノースウエスト12、デトロイト行きの午後4時(日本時間)発であった。さすがのワタシもかなりの余裕を持って来たので、待ち時間がかなりあった。(ワタシは飛行機もギリギリに乗るタイプだったので、よく大分とか伊丹、羽田、名古屋などでターミナルを走ったものだ......)そこで日本で最後の晩餐。大好きなカツ丼を食べることにしたのである。(このさきまともなカツ丼はお目にかかれていない( ̄へ ̄|||))

 さて午後4時、機内。なんだか30分ほど滑走路で待たされたが、ついに離陸だ。(*;д;)ノ~~さよぉなりら~、ニッポン、いつか必ず帰ってくるからな~、と強気に思うも、ちょっと涙ぐんだ自分がいた。

かけがえのない時間~いかにしてアメリカに来たのか(3)

 最近は朝ご飯をなにか食べることにした。やはり朝食は人間の活動には必須らしい。しか~し、ワタシの先輩(女性!)の様に起きたてのホヤホヤでカツ丼を喰らうことのできるような強靱な胃をワタシは持ち合わせていないので、ナニを食べるのかというのが問題となる。では、さて今朝はナニを食べたでしょう?答えは......ケーキだ。しかも先日、衝動買いしたバテレンタインデーバリバリデコレーションのヤツ。嗚呼、オレは朝からナニを喰っているんだ......_| ̄|○ ガクッ


 宮崎に無事にかつ出航時間前になんとか辿り着くも、ちょっと時間ができたので、18時間ほどの船旅を楽しむためにまず缶ビールを大量に買い込む。そしてマンガ雑誌となにかの小説だ。それと食料は行きの船旅でのレストランの威力に参ったので、どこかでホカ弁を調達しての上京となったのである。ああ、ついにお別れね、九州よ~(* ̄▽ ̄)ノ~~ マタネー♪

 ところでフェリーに乗り込む時にちょっと問題発生。荷物をそれこそ詰めるだけ詰めてきたので、フェリーのタラップに危うく登れない状況に陥った。フェリーにクルマを入れたことのある人はわかると思うのだが、のろのろと列をなしてタラップを登っていくのである。しかしワタシのクルマ、重量に対して、低回転でのトルクが充分でなかった為、半クラッチで徐々に登ろうとしても、エンストしてしまうのである。まあこれはクルマの性能限界なのであるが......

 さてまた生まれ故郷の地を踏むことになったワケで嬉しかったのだが、ウレシすぎて買ったビールを船旅半ばで全部飲んでしまい(さすがに無茶な量は買わなかったのだが......)、手持ちぶさたになったので船内の自販機でまたビールを買って飲み続けたのであった。ああ~なんてシアワセ~ヾ(●⌒∇⌒●)ノ、と思いつつ......

 川崎埠頭についてからは久しぶりの都内の運転。なんだかココロはウキウキである。たったの1年だったのだが、道を間違えることもなく実家に帰ってきたのであった。まず家に辿り着いてから、荷物を全部クルマから出す作業。でもうっかりトランクに入っていたお米を出すのを忘れていて、後日、見事にお酒になっていたヨ......

 実家に戻ってからの3週間あまりは、あまりに忙しかった。ナニがかといえば、連日の飲み会だ。高校の同級、大学の同級、元の研究室での飲み会を2セット、幼なじみとの終夜カラオケなどなど。あと大学の図書館で前の大ボスと先輩(カツ丼を朝一番に摂ることが可能、かつ牛丼を高速に喰らうことも可能)とたまたま出会うとゆーのもナニカの暗示か!?

 そんなカンジで日本での最後の思い出(未だに最後にならないことを祈っていますよ、モチロン!)を作りながら、出発の朝が刻々と近づいていくのであった。
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