前々回のエントリから読んでね!

 相変わらず心地よいBozemanの気候。休みの日はついつい昼寝をしてしまう。




 引き続き、”ベンガラ”のお話だ。前回、書き手のヒトは諏訪まで行き、元大学教授のA氏から”ベンガラ”と元軍部や本土決戦との関係を語られる。そして、そのA氏からB氏という諏訪神社関係者を紹介されるのであった。

Bさんのお話
 Bさんの取材は実は大変でした。諏訪神社(神社でいいのです)の関係者とはうかがっていたのですが、神官の一つである副祝という職にあった(現在は引退)人でした。なぜ、このような方をA先生が紹介してくれたのか、最初は全然分らなかったのですが、実は大変なことだったのです。それを書く前に、最初のいきさつについて、報告しておきます(じゃないと、なんでこんな重大な話を、初対面のわたしにしたのか、疑う方もいると思いますので)。
 Bさんとは、上諏訪駅近くの「味宏」という料理屋で会いました。15日のことで、本来ならお盆休みというところなのですが、この日は諏訪湖の花火大会なので、開いていました。昼飯でも食べながらということで、Bさんが指定してきたのです。しかも、示し合わせたかのように、「味宏」のお勧めメニューは「車海老の天丼」でした。Bさんは、60過ぎのがっしりした体格の人物。わたしは、この歳になっても自分より大柄な年長者というのが苦手なのですが、Bさんは、そういう意味では恐ろしいほどプレッシャーを感じさせる人物でした。昼飯でも・・・というお誘いだったので、友好的に話が始まると勝手に思い込んでいたのですが、実際は反対で「なにを企んでいる」「なんで、今ごろそんなこと詮索する」という詰問から、話は始まってしまいました。わたしが個人的な好奇心からだと説明すると「なんでそんな気まぐれに、付き合わなければならなにのか」「お盆休みだっていいうのに(あんまり、一方的に言うので、思わず『あんたは毎日が日曜日なんじゃないの』と言い返しそうになってしまいましたが、ぐっと堪えました=当たり前だ)」と大変な剣幕です。A先生の名前を持ち出し、ビールで乾杯して、やっと話が始まりました。ところが、話が始まると、Bさんはとんだ話好きでした。
 以下、Bさんの話の要約です。
 松本大本営の計画が進んでいたとき、陸軍参謀本部にU中将という人物がいた。当時海軍は、伊号潜水艦を使って(晩期はUボートを使って)ドイツから秘密兵器の情報を仕入れ、実際、桜花、菊花、秋水などのジェット機、ロケット機を製作した。これに対し、陸軍は登戸研究所で殺人光線の研究を行っていたが、開発の目処は全く立っていなかった。この状況を苦々しく思っていたU中将は、全く違った視点から、秘密兵器を開発しようとした。それが、「蛙狩」だった。諏訪の7不思議の一つで、正月元旦早朝に諏訪神社上社前の御手洗川(みたらしがわ)で蛙(赤蛙)をつかまえ、生贄(いけにえ)として捧げ、国土の平安などを祈るという古来の風習だったが、U中将は、この赤蛙に人間をあてた神事を提唱した。すなわち「神ながら(かんながら)赤子還り」という神事である。国民一人一人が、神懸かり、古代の天皇の赤子に還る(蛙)という神事で、ここでの赤子とは、文字どおり赤い人間をさし、不死身であったというのだ。
「不死身ですか?」
 わたしが問うと、一杯のビールで、真っ赤になった(それこそ赤子だ)Bさんは、声を立てて笑い、それからむせたのか涙混じりに言いました。
「不死身さ。絶対に死にはしない。なにしろ生きていないのだからな」
 Bさんは泣き出し、「味宏」の客は不審な目でこちらを見ます。店の人は、どうやらこうしたBさんのふるまいには慣れているようで、こちらを見ようともしません。
「生きてるのは、畑山さんくらいだろうな」
 Bさんは、泡の消えたビールを飲み干し、いびきをかき出しました。


 文中で登場する”神ながら(かんながら)赤子還り”の神事だが、ナチスドイツの戦争におけるオカルト傾倒にも似ている。また個人的に思い出したのは高野山が執り行ったという、Franklin Roosevelt大統領(1945年4月12日に死亡)の呪殺のための大元帥明王法。(むかし密教関連の書籍に記載されていた)

Bさんは、その当時9歳で、副祝は世襲だったので、父親、祖父がこの件には係っていました。Bさんも後を継ぐことが確定していたので、正式なメンバーとして「蛙狩神事」に参加されて(させられて)いました。なお現在の諏訪神社の副祝は、Bさんの一族とはなんの関係も無いそうです。Bさんには子供はなく、副祝という立場にも全く執着がなかったので、他人に譲ったということです。なお、Bさんによれば、奥様は元宝ジェンヌとか・・・
 Bさんの話2(目を覚まし、続きを話してくれた)
 赤蛙には、地元の若者6人が選ばれた。いずれも徴兵検査に不合格だった者たちだ。当時男子の誉れは甲種合格であり、第一乙となれば、いささかコンプレックスがあり、いわんや丙種(不合格)というには、死にも値する不名誉だった。現実的に、丙種になるのは「性病」「結核」「不具」の者に限られていた。そんな青年に、陸軍参謀本部から、滅私報国の要請があったのだ。皆勇んで「赤蛙」たらんとした。赤蛙になるためには、斎戒沐浴、諏訪神社での禊(みそぎ)の後、21日間の断食、及び「丹」の摂取が必定だった。丹とは水銀である。丹頂(鶴)というのは、頭が赤いと言う意味だ。つまり丹とは赤を指す。金属の水銀を呑めば死んでしまうが、水に溶かした丹薬として呑めば、かなりの量を摂取出来るのだ(註;水銀イオンということだろう)。神事は滞りなく進んでいたが、10日後に最初の死者が出た。全身を赤く染め、皮膚はただれ、眼球も溶け出すような有り様だった。むろん失敗したわけではない。腐敗しない不滅の肉体が、松本大本営の人柱として捧げられるのだ。残り5人の若者も、感動し、一刻も早く、「赤蛙」たらんとしているうように見えた。しかし、一人例外がいた。それが畑山さんだった(註;前の書き込みで、これは当然C氏とするべきでした。113のレスに秦氏と書かれていたのを読んでいたので、つい無意識にこんな名前にしてしまいました。いかさま、畑山は仮名ですが、秦氏との関連を思わせる苗字です)。
 畑山さんは、帝大を肺病で中退したインテリで、「赤蛙」の儀式にも批判的だった。田舎で戦にも行かぬ身、非国民の謗りを受けることは、別段苦痛ではなかったが、両親が村八分になることを懸念しての参加していたのだ。しかし、惨たらしい死に様を目の当たりにして、その覚悟はすぐに揺らいだ。畑山さんは脱走した。
 わたしは、Bさんの先を促した。畑山(前述したように、実際とは違うのだが)という姓は、叔母の旧姓なのです。

すみません。今までのスレにある「松本」は総て「松代」の誤りです。A先生に電話で確認したところ、紅殻を運んでいたのも松代方面だったそうです。A先生は松本と言う土地が、お嫌いのようで、信濃国家の歌詞も「松本、伊那、佐久、善光寺」ではなく「佐久、伊那、松本、善光寺」にすべきだとおっしゃっていました。


 当時の日本は文中の徴兵検査で不合格になることを、大きな不名誉であるという風潮があったとのことだ。これは昔読んだ”津山三十人殺し”(横溝正史八つ墓村のモデルとなった事件)の都井睦雄も同様に肺病で丙種となったという。

 Bさんの話3(近くの喫茶店に場所を移してうかがいました)
 脱走兵が憲兵に捕らえられたりするのは「おしん」なんかでも、やっていたろう。畑山さんの場合はもっとずっと深刻だった。しかし、事はあっけなく解決した。畑山さんが死体で発見されたのだ。服装は脱走したときの白装束、皮膚は溶け、全身真っ赤だったそうだ。むろん非国民の亡骸を人柱には出来ず、遺体は古井戸跡に放り込まれ、そのまま埋められた。その後、終戦になり、総ては頓挫した。5体の「赤蛙」は、荼毘にふされ、この計画自体が闇に葬られた。しかし、昭和21年の夏、事態は意外な方向に流れた。畑山家に畑山さんが戻ってきたのだ。村人は「赤蛙の神事」も、畑山さんの脱走と死もむろん知らなかった。戦争が終わって180度世の中が変わっていたから、むしろ畑山さんは、歓迎された。しかし、ならば、あの死体は誰のものだったのだろう。偶然とは考えられず、だから、畑山さんが殺して入れ替わったということなのか。Bさんは、その後何年も立ってから(成人してから)、畑山さんに、脱走のことについて質問したと言う。畑山さんの言によれば、丹などただの毒薬に過ぎず、単に犠牲者の遺体に紅殻を塗って、それらしいものを造っていただけだった。U中将は自分の行っていることがいかさまであることは自覚していて、ただ大本営においての自分の存在感をアピールするのがもくてきであったのだ。
 なおU中将は、昭和30年代に自殺したと言う話でしたが、当時の新聞の縮刷版には、そんな報道はありませんでした。信濃毎日新聞にも問い合わせましたが、担当者が夏休み中ということで、未だ不明です。
 Bさんは思い切って、畑山さんと思われた死体について質問してみたが、畑山さんは少しも動じることも無く、心あたりない旨返答した。実家の蔵の地下に隠れていたが、なぜ捜査にこないのか不思議に思っていたという。


 次に登場するC氏のお話は、文中の畑山氏として葬られた人物の正体についてだ。だんだん小説みたいな展開になってくる。